昭和52年05月03日 朝の御理解
御理解 第55節
『賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。』
頼んでもらえる時に、御用はさせて頂いとかなきゃならんと思う。よく私が七十になったらもう、まあそれこそ隠居仕事、神様の御用もさしてもらう。「それまで待って下さい。それから先は、もう一生懸命御用さしてもらう」と言うておって、命の方がなくなってしまう。善導寺にあの、上野さんというとても良い総代さんがおられました。草野から。信心のほうもたいへん熱心な、もう自転車の上で「金光大神様、金光大神様」と言うて行くので有名だった人でした。
確かにそのまあ、ほんとに有り難そうな信心をしておられましたけれども、まあ「有り難そうな信心」であったんだと言う事になりますね。有り難いと言う事には、位が付いて来ると言う様に、又は有り難いというものには、おかげが伴うて来るというのです。だからあの、自己満足的な喜びではダメです。神様の心に通うから、神様が有難いものを送って下さるという、有難いでなからなければ位がつかん。
位がつくというのはね、一年一年位がつくのですから、一年一年例えば繁盛なら繁盛ということに繋がらなければならん。私はまあ上野さんに申しよりました。その御用のほうを総代さん方が、まあその当時はもうそれこそ先生のお手代わりも、言うならばどぶざらいでも、まあいろんな面で一生懸命御用を頂いておったんですから、こちらがその燃えておる時ですから、総代さん達にでもそういうわけですね。
もうお参りも大事だけれども、御用を第一になさらなければならん。いいえ大坪さん待って下さい、私が七十になるともう、ほんとに打ち込んで御用をする。まだ何せ(?)けれどもとにかくあの、一途にそれは本当だったと思います。ちょうど秋のご本部参拝と何か植木業組合が何かで、金毘羅さん参りと一緒になった。もう当然御本部参拝のほうをとられるだろうと私は思うておったら、金毘羅さんの方をとられた。そして金毘羅さんのあちらの旅館で、お酒を頂いてお風呂に入られたらしいですね。
お風呂の中に浮いとられたちゅうんですね。ほんとにそう言う所がです、ほんとに有り難いという信心を頂いておかなければならならいし、ならほんとに総代なら総代としての御用が、総代としてはどうあるべきかと思うたら、万事万端教会の運営の上に、目を配り心を配りさせてもろうて、先生の手にも足にもなっていくというのが総代ね。それもならもう年をとってからね、もう五体が段々不自由になってから、なら先生が「ああ、こう」と言われても、もう体のほうが動かんし。
また自分としても、若い時の様な訳にはいけない。だから十分の働きが出来ておる間に、言うならば働かして頂いとかなきゃならない。御用をさして頂いとかなければならないね。私そういう本当な御用が蓄積されて溜められて、私有り難いものに繋がって行くと思う。これは賃を取ってではない無条件。無条件の例えば御用。そこに神様が賃以上の賃を払うておって下さる。そういう的確な手応えのある御用のできる信心ができてこそ始めて、位が付く様な有り難いというものが生まれてくるんじゃないかと。
ただ「有り難い有り難い」と言うておっても、それが自己満足的な有り難いではなりません。私昨日ここを、朝の御用をいつも八時半まで、しますけれども八時までで、八時から小倉の教会に参拝のおかげを頂きました。高橋さんの車で幹三郎がお供をしてくれました。そしてもうほんとにお参りしてから、お参りからもう一直線で帰ってくるんですから、もう一時ぐらいにはこちらへ帰ってまいりましたが。
いつもあちらでは、親先生がおられんことが多いのですけれども、昨日は御結界奉仕をなさっておられました。まあ久しぶりでしたから、大変先生も喜んで頂いて、二十日のご大祭、二十一日の霊祭を二日続けてあったんです。ご案内を頂いておりましたけれども、私が迂闊にしてから、コロッと忘れとった。ですからまあ、昨日は参拝になったわけでございますけれども、参りましたら、まあいろいろご信心話をして下さいましたが、先月の二十七日が、今の教主様のお誕生日であった。
それで参拝のおかげを頂いて、四十五分間にわたる教主様の御教えを、御理解を頂いて帰ったという話をして下さいましたね。その中に教主様がおっしゃっておられることなんですけれども、ほんとに自分のようなものでも親様、三代金光様ね。おじい様、四神様。又は教祖様が前になり後ろになりして、お守り下さりご指導下さるから、自分のようなものでも、御用ができて有り難いと、というお話を信じてのお話であった、と言う事を聞かせて頂きました。
ですからね、最近「合楽理念に基いて」という生き方をこちらが身に付けていっとりますから、その話がね、空々しいものになっていくもう、それこそ真剣姿勢。みなさんもご承知のようにもう、お話はもうほんとに素晴らしいあの、実のある、しかもお上手で。それこそ私どもしか来らんとにも、お広前中に響くような透き通ったお声ですから。お話をして下さったんですけれどもです。
それが私には、ひとつもその、いわゆるいくら三代様だって四神様だってですね、そんなに働きをできなさる事はないんだというのが「合楽理念」ですからね。御霊様が働いて下さるなんて言う事は絶対ないんだというのですから。いかにも御霊様がね、なら言うなら亡き御霊が姿を現して、これは四神様もそれを仰っておるわけですね。親金光様が朝に晩に御結界に現れになられて、そしてその、お取次ぎのいわば指導をなさったという話です。けれどもそれがね、言うなら空々しいんですね。
そう言う事が嘘というのじゃないです。けれどもそれはどこまでも天地金乃神様の、言うならばトリックであってね。四神様が、三代金光様が天地の親神様の、言うならばお指図を受けられて姿を現したり、そういう霊的な働きを現しなさるのじゃなくてね。天地の親神様のどこまでもそれはトリックなんだ。私共もそれを信じておったしね、それでやはり、なら感激しておりました。ところがね、合楽理念で御霊様のことを頂くとね、どこまでもそれは天地の親神様の例えばね。
四神様の所へ他所のじいさんが来たりしてからいろいろお指図をなさったところで、四神様が感動しなさるはずがない。親金光様であったりね、それが御霊様のお姿であったりするから感動なさるのだけれども。それは御霊の働きじゃない。そう言う様な、まあ普通で内々、身内の者だけにしかなさらんようなお話を、四十五分間に渡ってなさったという話を私にして下さったんですけれども。
「それは実はこうですよ」と言いながら心の中に言いながら聞きよるもんですから、有り難いことだと言う事になってこないわけです。してみると勿体無い話ですけれども、教主様は自己満足的喜び、感動だと言う事になるのです。だからそれにはおかげは伴わないんです。本当な事に感じ、本当の事が分かって頂く。私共の信心させて頂く「真に有り難いと思う心すぐにみかげの始め」と言われますが、確かに「真に有り難い」という心には、必ずおかげが伴います。
ほんとに感動的なね、喜びが嘘ではないけれどもね、本当の所から湧いてくる喜びではない、その喜びでは位はつかんです。位が付くなら絶対繁盛になるのですね。その位が付く所の信心、位が突く所の有り難さ、しかも一年一年というのですね。ですから、本当か本当でないかと言う事はね、それによってね、自己満足ではない本当の喜びであるならばね、それが必ず繁栄に繋がるんだと。だからその本当な事を引っ提げての、私は教導であり、本当の事を踏んまえての信心生活でなからなければならない。
まあ取次ぎ者としてなら、本当の事を踏んまえての取次ぎ信者であるならばね本当の事を踏んまえての信心修行。その本当な事というものが、私は頂けるのは私が今日申しますね。「賃をとってする修行は」とここにはありますから、意味がちょっと違いますけれども、賃をとらんでもさせて頂く御用。無条件しかもそれが的確に神様が御用として受けて下さる信心御用なら、必ず有り難いものが伴うしかも位がついてくる。
昨日からお話しますようにね、金額で言うなら、百万円の収入が入りよったなら次は二百万円。二百万円の収入がありよったら次は三百万円と、収入でも上がってくるおかげでなからなければ、位がつくほどの有り難さを受けておらんという、もう厳密な言うなら有り難さ。厳密な有り難さでありね、厳密なおかげを頂けていけれる、言うなら有り難くなっていけれる、まあ信心を私どもが体得していかなきゃならない。そういう意味で「合楽理念は絶対だ」というふうに思いますね。
私自身がならおかげを言うならば、頂き現してのことなのですから。私は昨夜しきりにそのことを思わせて頂いたんですけれども。ほんとにおかげを頂いてね、貧・争・病のない世界におかげを頂き、次には衣・食・住。人間の幸福というものはね、衣食住が足ろわなければと言われておりますけれども、衣食住だけではできんのですね。それにはやはり「人の和」というものが要るです。どんなに衣食住に埋もれておっても、家庭が不和であったり、人間関係が思わしくいかなかったりしたんでは。
もうなら衣食住だけ、足ろうておるから幸せって言う事じゃないですね。そこに言うならば貧争病のない世界。争いのない世界貧乏のない世界、しかもそれもね、百円の財産なら次は二百円の財産、二百円の財産なら、三百円の財産と言う様にね、おかげを頂いていけれる信心。今日は勿体無い話ですけれども、私は昨日ここへお参りさして頂いて、頂いた御理解が、実感として有り難いものに感じ。まだ他に有り難いものは、いろいろ頂いてきました。
けれどもその教主様のお話に対してだけはあの、言うならばもう本当に随喜の涙を流して、以前なら頂いとったでしょうと思いますけれどもね。惟はね教主様のそれこそ手元の所で、その有難いというものがおかげに繋がって斯だ、というお話でなからなければ、もう私には合点ができんのですね。そういう意味でなら合楽では、私がおかげを心の状態とね。信心とおかげとを、がおかげを頂き平衡をしていっておる。「ほんとにおかげ頂いたもんであるな」と。
第一貧、争、病がない、いわゆる部署部署に事欠く事がない、しかも勿体ないほどしのおかげを頂いておるいう、だからそこまで有難いなぁと思う心が極楽であって、そのおかげをひっさげて、ならここにお参りしてみえる皆さんに、それを聞いて貰い説かせてもろうて、皆さんもそういうおかげを頂いてもらい、そういうおかげの自立を引っ提げて、合楽示現活動に参画さしてもらい、和賀心時代を創り拡げて行こうと言う、いわば働きになって来なければ相済まんと言う事になるのですけれども。
本当にこれだけのおかげを頂いて、もうちょっと迫力のある信心、もっと迫力のある、今私が頂いておるのはそこだと、本当な事から本当なものが生まれて来る、それを自分でただ本当なものを頂いて、貧、争、病もなからなければ、衣、食、住に事か欠く事もないほどしのおかげを頂いて、しかも最近ではま真善美に輝かんばかり、のおかげをも頂きつつある今日に合楽です。
ですからこのおかげこの事実をひっさげて、なら皆さんに話を聞いて貰う、この事実を引提げて、いうなら合楽示現活動に参画して貰う。その事実をもってです和賀心時代をいよいよ拡げて行く、言うならば迫力というものが出らんものだろうか。自分ながらなさけない位に、その迫力に欠けておる事に、これ程しのおかげを頂いて、また有難や勿体無やでは相済まんと言う所に。ぎりぎり夕べは私の思いが至った訳です。
そして今日はここの55節がです。賃を取らいでも出来れる御用、いわゆる無条件の御用、ここんところをです私しゃもっともっとこれは、深めて行かなければならないなと、身に着けて行かなければならないなと。心恩報謝とこう言う事を申しますが、これ程しのおかげを頂いて、神恩報謝に奮い立たなかったならば、それはただおかげを頂きました。というならば極楽の世界に住んでおると言う事にだけになる。
これはなんとか工夫をさせて頂いて、もう少し迫力のある御用に専念させて貰わなきゃならない。そんなら私に残されておる、これから私の頂く御用はどこに焦点を置いたら良いかと言う事になるんです。もうこの頃年を感ずる、先日近見市長さんじゃないけれども詰これ家庭の上にもおかげを頂き、福岡におります息子達の上にも、或る意味にお願しておきましたが、本当に不思議なおかげを頂いてやれやれと思いよりましたら。
体の方がどうも具合が悪い、そりゃぁもうあんまり市政上に、責任をもった御用をなさっておられるから、だから疲れるです、いいえ疲れとは思われません、この頃年を感じますとこういう。それ実を言うと、市長さん私もやっぱりそうなんです。所が不思議な事にです、ここへ座らして頂きますと元気がっでる、ここへ座らして頂きますとね、例えば8:30に立たせて頂く事にしておりますけれども、お取次ぎがずうっと続いてありますと、9:00までも、昨日一昨日など10:00まで坐っとりました。
お取次ぎが続いとりますから、そしてなら1:00にはここに出らして頂く、もうそれこそちょうどその日は千六百何十人かのお取次ぎをさして頂いとりますから。もう本当にあのう4:30に下がるまで御祈念をする暇も無い位に、ぎりぎりお取次ぎをさして頂いた。それがもう本当に不思議に有難い。というてお膝に下がるとガタガタとこう何かこう軟らかい物の上に、そのまま倒れ込みたいごたるある感じがする。
だからここは不思議なところですよ、というのは何時も心を神様に向けれおるというようであってです、ここでと言うならば、裏へさがってからの抜け方が違う、そのその真剣さが私しにいま欠けておるんだ、裏へ下がってもそういう思いでの信心が、これからは残されているんだ入るんだ、市長さん不思議ですよと、お参りをしてお話を頂く、今日からは一つ、金光大神様20回でも30回でもよいから、唱えてみてご覧なさい、何か知らん力が涌きますよ。
大祓い心やんなさいとまでは言いませんでしたけれどね、まこの次はこんど言えれるような、こんだおかげを頂いてもらう。大祓い心行それこそ唱えさせて頂いて、市政の上にも当らしてもらえれるような、信心に進んでももらわにゃなりませんけれども、ならそのときに実感として、心を添えて神様に向かうと、こころからどっかからか分らんけれども、別なエナルギイーが掻き立てられるような、いわば瑞々しい生き生きしたものが感じられる。これはまあ私しの事ですけれどもです。
まあ申します様にいよいよ貧、争、病もなからなければ、居、食、住にも勿体ないほどしのおかげを頂いて、いうならば人間関係に私の周辺のいうなら人間関係に於いてもです、勿体無い様な人達が私の手にも足にもなって下さって、おかげを御用を頂いて下さる。その御用頂いて下さる方達にも、末梢神経に至るまでの働きが現れて来る様なおかげを頂く為には、これがも少し本当に参加しなければ、御結界におる時もあちらにも、でも同じような生き生きしたものが出来て来る様なおかげを頂かなければならない。
そしていうなら賃を取ってする仕事ではない、いわば無条件のいうならばそれほどしのおかげを頂いておる、極楽のおかげを頂いておる私しは、いよいよ合楽のおかげを頂けなければ、神様が喜んで下さり助かって下さる、神様の願いにそうて行けれる信心に、私しがならせて頂く時、又一段と位を頂く事だろうとこう思う。有難いという心も、いや増しに大きく広がっていく事だと思う。ここにはねおかげの実証というものがなからない、有難いと言うならばです。
それはですね、再吟味、再検討さしてもろうて、ただ自分よがりの有難いというものではなかろうか、おかげに真に有難いと思う心、すぐにみかげの始めと仰るそのみかげに、通じていない先が教祖様のみかげに繋がっていないですけれども。ただ自己満足的な喜びではいけない、本当に天と地と私共との上にです、通い合うものその喜びが、で初めて真に有難いという訳です。
だからその喜びの交流に従って、おかげがそこのルートをたどって流れて来る。それをならこれくらいでよければ、私しもこれくらいでよいけれども、もう年を感ずる等と言うような言わばことではなくて、言わば位が付く程、位が付く程有難うなってその、真に有難いというものをもちっと、大きく展開に持って行かなければならない。いよいよ多くの人達が助かって下さらなければならない。
合楽にはその助かって頂ける元がここにはあるんだと、実証があるんだ、と言う程しのお話が出来る位の合楽理念というものは、内容が深いものだと言う事です。いよいよ合楽理念にもとずいてのいうなら位をいただくであり、合楽理念にもとずいての有難いでなかったら、間違ってただ喜びと言うのであってはおかげがともないません。喜びの言うならばさいりゅうに言う事を今日は聞いて頂きました。
どうぞ。